霊山“妙高山”への入山禁止時代

 当地のシンボル 日本百名山の妙高山(2,454m)は、別名“須弥山”とも呼ばれております。須弥山とは仏教界において、世界の中心にそびえる、果てしなく高い山のことです。そして、戸隠山、白山とともに、山岳信仰の霊山として多くの修験道に崇められ、登山禁止、女人禁制を厳守されてきました。平安中期から鎌倉時代、弥勒信仰が盛んで、妙高山も阿弥陀如来の鎮座する霊山として崇められていたのです。かの空海も妙高山を霊山と直感で悟り、修行の場としました。また、親鸞聖人も霊眼により、この霊山に霊泉ありと悟り、里の民にこれを告げたのですが、当時は、地獄谷(温泉源泉)からの温泉引湯はもちろん、硫黄の採掘も禁止されていました。

 なお、赤倉温泉の開湯以前、妙高山一帯は、関山三社権現(現在の関山神社。708年建立)の領地でした。関山三社権現は、妙高山の神様を祀るため、また、霊山として一般には入山できない妙高山の“眺めの場”として建立されたのです。今で言うところの、妙高山を眺めるベストスポットだったと言ってもよいでしょう。そして、宝蔵院(関山神社の近くに跡地あり)が関山三社権現の別当寺として、事務等一切を仕切り、また、修験道の道場となっていました。宝蔵院は、太陽が昇るところから沈むところまでの範囲はすべて領地と言われたほどの勢力でした。これでは、江戸時代にあっても、高田藩の出る幕もなく、妙高山は宝蔵院が管理し、一般には入山禁止となっておりました。

 その絶大な勢力を誇った宝蔵院も徐々にその財力を失い、その体面を維持するためにも、お金に窮するようになり、いよいよ赤倉温泉開発の時節が到来するのです。
 江戸時代、西暦1800年代のことです。

須弥山とは

 須弥山(しゅみせん)とは、仏教の宇宙観にある世界の中心をなす想像上との霊山です。須弥山の名は、サンスクリットのスメールの音写です。漢訳すると「妙高山」「妙光山」となり、これが妙高山の名の由来と考えられます。古い文献では、妙高山を「妙光山」と表記しているものもあります。
 須弥山の中腹の四方には四天王、頂上は帝釈天を中心とする三十三天の宮殿があるとされます。日月は山の中腹をまわるとされ、典型的な天動説世界観で、インド人および仏教徒の思想を長く支配しました。
 妙高山とは、まきに世界、いや宇宙の中心なのです。 覚者には、妙高山は宇宙の中心に見えるほどの魅力が感じられ、「これぞ須弥山なり」と称したのでしょう。

江戸時代・赤倉温泉の開湯

〜江戸時代文化13年(1816年)〜

 江戸時代文化11年(1814年)、村民代表として庄屋の中嶋源人らが中心となり、役人松本斧次郎を介して、越後高田藩主榊原政令に、温泉場開発の願いを出しました。

 前記の通り、当時、妙高山は宝蔵院が管理し、入山すら禁止されていたのです。
 そこで、温泉買い入れ金800両、打撃が予測される関の湯(現関温泉。これも宝蔵院の領地)への迷惑料300両を宝蔵院に支払うことを条件に、文化12年に許可を受けました。
 米一石一両の時代に、実に1,100両もの出費でした。

 そして、文化13年(1816年)3月より着工し、同年9月下旬に温泉引湯に成功し、湯船2箇所(共同浴場)ができ、入浴できるようになりました。引湯にあたっては、佐渡、越中より取り寄せたと言われる大竹や自生する木で、妙高山地獄谷より6〜7kmの距離を結んだという今では信じがたいほどの大事業です。その間、総経費として、3,120両2朱余がかかり、拝借米2,000俵、続く温泉宿の建設や新田開発の費用が2,161両となった、まさに高田藩の命運をかけての壮大な開発事業でした。

 その後、松本斧次郎は、初の温泉奉行となり、赤倉温泉は我国唯一の藩営温泉となりました。赤倉温泉の誕生は、日本初の「第三セクター」と言ってもよいでしょう。「殿様が造った温泉郷」とも呼ばれます。

 今から190年以上も前の話です。

“殿様の湯”赤倉温泉街の誕生

 文化13年の温泉開湯後、文化15年までのわずかな文化年間において、中嶋源八ら7名の名請人(発起人と考えるとわかりやすい)の開業(うち「和泉屋」は現在もある)とほぼ同時に、高田屋、永野屋、湯本屋、小方屋、南部屋、村越屋(現「赤倉ホテル」)、高砂屋、遠問屋(後に「あたらしや」、現「遠間旅館」)などが開業し、小さいながらも十数軒の宿が建ち並ぶ温泉街ができあがりました。そして、これらの宿は、高田藩に毎年15両もの上納金を納めていたのです。

 赤倉温泉は、赤倉山のふもとにあり、また、当時の温泉源泉が赤倉山の「南地獄谷」(現在は池の平温泉、妙高温泉の源泉)、そして、「北地獄谷」(現在の赤倉温泉の源泉)にあったことから、その名がつきましたが、当時は、その地名により、「一本木温泉」とも呼ばれていました。日本唯一の藩営の温泉地であり、「殿様の湯」とも言えるでしょう。

 その後も、宿屋はどんどん増えていますが、徳川時代から現在まで代が続いている宿は、上記の「和泉屋」「赤倉ホテル」「遠間旅館」の他に、「赤倉ワクイホテル」「スターホテル赤倉」「春秋の宿大丸」「旅館清水屋」「まつや旅館」「板倉旅館」「岳雪荘」「香雲閣」などがあります。

 当時の赤倉温泉は、湯治場、北国街道の宿場町として発展し、後の明治、大正期には、湯治とともに、徐々に避暑地、高級別荘地としての発展をとげてゆきます。

文人名士に愛された明治以降の赤倉温泉

〜尾崎紅葉、与謝野晶子、有島武郎…〜

 赤倉温泉が温泉地としての発展をとげるにしたがい、多くの文人、名士等に愛されるようになりました。

 明治32年、「金色夜叉」で時代の寵児となっていた尾崎紅葉(おざきこうよう)が赤倉温泉を訪れ、香嶽楼に滞在しました。そして、妙高山の絶景に感動したのは勿論のこと、霞の向うに見える頚城平野、日本海、佐渡島の景色を絶賛し、名産品であるくず粉のことなど、赤倉温泉の魅力を多岐にわたって紀行文「煙霞療養」にて全国に紹介しました。尾崎紅葉は、赤倉温泉を「天下一」と激賞したのです。

 明治39年、横山大観、菱田春草、下村観山らの師で、日本近代美術の父とも言える岡倉天心が、 家族とともに、赤倉温泉に避暑にお越しになりました。当地を激賞した天心は、別荘「赤倉山荘」を 建て、毎年夏には避暑に訪れ、また、晩年を当地で過ごし、当地が終焉の地となったのでした。

 明治41年秋、与謝野晶子、与謝野鉄幹、有島武郎らも尾崎紅葉と同じく香嶽楼を訪れ、当地の覇景を主な題材とし、歌詠みをしました。

 大正11年、細川侯の別荘が設けられました。すると、高松宮殿下、秩父宮殿下が年末にスキーにおいでになり、新聞もこぞってこれを報道しました。また、大正14年に久邇宮(くにのみや)家の別荘が建てられ皇族の避暑地となって更に有名になったのです。

 こんなことから、赤倉温泉は、避暑地、高級別荘地としての発展も進み、「妙高倶楽部」と称し、サロンとも言える名士の集まる別荘が建てられるなどしました。そして、大正5年の全国避暑地投票において3万票を獲得し、全国一位に輝きました。

 昭和33年には、岡本太郎が中心となり、赤倉温泉を愛する友人達が楽しく過ごせるロッヂとして、「赤倉サンクラブ」が建てられました。

 昭和39年に出版された「日本百名山」の著者深田久弥は、赤倉温泉の椿荘和田に滞在し、同書を執筆しました。当地の「妙高山」「火打山」を日本百名山に選び、日本を代表する山と激賞したのです。

“東洋のバルビゾン”赤倉温泉

 明治39年、岡倉天心が赤倉温泉の地を訪れました。岡倉天心は、世界的画家横山大観、菱田春草、下村観山らの師として知られ、日本近代美術の父とも言われている人物です。

 岡倉天心は、当地を訪れると、「世界一の景勝の地」と激賞しました。そして、別荘「赤倉山荘」を造るとともに、赤倉温泉を「東洋のバルビゾン」にしようという構想をつくりました。

 「バルビゾン」とは、フランスの都パリの郊外にある美しくも静かな村です。「落穂ひろい」や「種まく人」で有名な世界的画家ミレーらが住み、多くの画家を輩出した地です。天心は、赤倉温泉に日本美術院を移し、バルビゾンに負けない芸術発信地にしようとしたのです。そこで、天心は、弟子の横山大観、菱田春草を赤倉温泉に招き、彼らもまた赤倉温泉を激賞しました。ところが、天心があまりに当地のことを熱を入れて誉めるので、その意向を察し、本題を切り出される前に、天心が寝ている隙を見て東京に帰ってしまったのです。大観と春草は、赤倉温泉を絶賛しつつも、東京からは余りにも時間がかかる遠いこの地に美術院を移すことには納得できなかったのです。

 現在は、当地に理解のある平山郁夫画伯による、岡倉天心の遺志を実現したいとのはたらきかけもあり、「平山郁夫世界文化芸術研修交流センター」が設立されました。 現在、赤倉温泉と東京は約3時間で結ばれるようになりました。これを横山大観、菱田春草が知ったら、赤倉温泉を「東洋のバルビゾン」にしようと納得することでしょう。

大正時代の赤倉温泉を象徴する「妙高倶楽部」

 大正元年、東京の弁護士小出五郎、侍医頭入澤達吉らが中心となり、「妙高倶楽部」を組織し、赤倉温泉に別荘を建て、当地の開発に努めました。「妙高倶楽部」は、名士の集いの場となり、赤倉温泉が高級避暑地としての発展を遂げてゆくことになるのです。そのレジャーは流行の最先端をゆくもので、この時代にあって、乗馬場、テニスコート、玉突き(ビリヤード)、また麻雀荘までがあったといわれています。

 まさに“モダン”という言葉がぴったりです。

 これをきっかけに、温泉付の別荘がどんどん売れるようになり、赤倉温泉は、高級別荘地としての顔も持つようになりました。

 明治21年に鉄道が整備され、田口駅(現妙高高原駅ができ、大正12年に赤倉―田口間の直通道路が開通すると、昭和2年には、赤倉温泉への定期パスも連行され、赤倉温泉の繁栄は約束されました。

 その後、赤倉温泉は、日本初の公認リフトを建設し、スキーブームを牽引するなど、トレンドの最先端を歩んで参りました。

 そして、現在は、観光地の乱開発が進む中、上信越国立公園という立場から、大自然を大切にする景勝地として、また“本物の温泉”を守る温泉地として、四季型の観光に取り組んでいます。

 登山、トレッキングや里の文化をお客様に体験いただく「妙高自然ソムリエ」も組織されました。

スキー場としての発展

〜スキー発祥の地、日本第一号の公認リフト〜

 新潟県は、下越(新潟県北部)、中越(同中部)、上越(同南部)に分かれます。赤倉温泉は、上越地区に位置しますが、日本スキー発祥の地は、この上越なのです。明治44年、オーストリアのレルヒ少佐が、上越地区の高田金谷山(現在の上越市)にて、軍隊、県下の教員にスキー術を指導したのが、日本でのスキーの発祥です。当時は、2本のスキーに1本の杖(現在のストック代わり)というスタイルでした。この地でのこの第一歩が、スキー人口数千万人と言われる誰もが行うスポーツの先がけとなったのです。

 赤倉温泉は、避暑地として発展し、冬に訪れる人は少なかったのですが、大正に入りスキーが徐々に浸透し、高松宮殿下、秩父宮殿下がスキーに訪れることが知られると、一気にスキー場としての知名度が高まります。そして、「宮様スロープ」と呼ばれるコースができたり、大学生が集うことから「大学スロープ」と呼ばれるコースができたりしました。

 その後、昭和25年に、運輸省(現国土交通省)認定の日本第一号の公認リフトが建設されました。支柱は木造で、搬基は二人乗りというスタイルでした。その後このリフトは建て替えられていますが、現在も中央トリプルリフトとして代を受け継いでいます。その後、リフトの数は増え、昭和35年に11基、昭和53年には66基、延長36,640メートルにも及びました。現在は、リフトの高速化、複数乗車タイプになったことから、リフト、ゴンドラの総数28基、総延長20キロメートル以上、一時間当たりの人送力45,600人となり、日本有数の規模を誇ります。また、スノーボードブームにより、ハーフパイプ、ワンメイクジャンプなどのスノーボード施設も充実しています。

日本百名山の地へ

〜深田久弥が絶賛した「妙高山」と「火打山」〜

 昭和39年、深田久弥(ふかだきゅうや)が「日本百名山」を出版しました。もちろん、現在の百名山ブームは、この著書から始まります。深田久弥は、この地の「妙高山」(2,454m)と「火打山」(2,462m)を日本百名山に選び、絶賛しました。
 そして、この同山をこのように表現しました。

 「妙高山は……越後富士とも称される……越後のみならず私は日本の名山だと思っている。その均整のとれた山容の気品と言い、のびやかな裾野の雄大さと言い、名山としての名に恥じない」

 「どんなに雪が降り積もっても山のすべてを覆うわけにはいかない。どこかに雪をつけない崖や岩壁がある。ところが火打だけは完璧に白かった。こんな一点の黒もなく真白になる山は、私の知る限り加賀の白山と火打山以外にはない。」

 いずれも、妙高高原に登山道入口があります。

三ツ星観光地への発展

 これまで、説明いたしましたように、江戸時代の湯治場としてスタートした赤倉温泉は、その後、北国街道の宿場町、高級避暑地、高級別荘地、高級リゾート、スキー場として発達してきました。

 近年は、スキー場としての冬の赤倉温泉が有名ですが、その歴史的背景と自然景観から、改めて、春、夏、秋の観光地として注目が高まっています。赤倉温泉は、運輸省(現国土交通省)の「魅力ある全国の観光地」のランキングにおいて、「三ツ星」の栄冠に輝きました。スキー場としての赤倉温泉しか知らないお客様も、四季折々の魅力を発見し、年間を通じての赤倉温泉ファンが増えています。

 弘化3年(1846年)の年間浴湯客数が2,768人であったのが、6年後の嘉永3年には、14,059人となり、25年後の明治2年には、18,265人に増加しています。妙高高原全体での観光客数は、昭和26年が222,600人、昭和43年が1,457,000人、そして、現在では、年間約200万人のお客様が訪れる観光地にまで発展しました。

整備された交通網

 赤倉温泉開湯後、神社仏閣参拝の旅ブームがおこりました。赤倉温泉も長野県善光寺の参拝を主な目的とした北国街道の旅に乗じ、宿場町としての発展を見せました。ところが、明治に入り、鉄道網の整備に伴い、北国街道の利用が減り、赤倉温泉は、苦難の時代を迎えました。ところが、それは、新しいお客様をお迎えできるきっかけにもなったのです。明治21年に、田口駅(現妙高高原駅)ができ、大正12年に赤倉―田口間の直通道路が開通すると、昭和2年には、赤倉温泉への定期バスも運行され、赤倉温泉の繁栄は約束されました。なお、冬は、田口駅―赤倉温泉間に「馬そり」も運行していたのです。

 現在は、長野新幹線の利用で、東京―妙高高原間は2時間半の距離になりました。また、上信越自動車道の全通と「妙高高原IC」の開設により車でも東京から3時間の距離になりました。高速道路のインターチェンジから7分という抜群のアクセスとなったのです。

 そして、道路網の整備により新たな景色を楽しめるようになりました。上信越自動車道信濃町IC―妙高高原IC間の黎明橋から見る妙高山、中郷IC―妙高高原IC間から見る妙高山、国道18号線「信越大橋」(通称:スカイブリッジ)から見る妙高山は、いずれも絶景です。当地を激賞した尾崎紅葉、岡倉天心らにも見ることのできなかったこの景色を見られるのは、私達の特権といえるでしょう。

平山郁夫画伯と「妙高バルビゾン」

 既に紹介しました通り、日本近代美術の父「岡倉天心」は、赤倉温泉を「東洋のバルビゾン」にしようという構想をつくりましたが、志半ばで赤倉温泉にてお亡くなりになりました。

 一方、この構想を天心から受け継ぎ、強く支持してくださる人物がいらっしゃいます。その人物こそ、日本を代表する世界的画家「平山郁夫」画伯(東京芸術大学学長)です。

 平山郁夫画伯は・赤倉温泉に何度もお越しになり、天心も愛したこの風景を賞賛されています。平成14年7月24日より2日間ご滞在されたおりには、赤倉温泉で数枚の絵をスケッチされました。

 また、そのご滞在の際、有馬朗人氏(参議院議員、元文部大臣)平山征夫氏(新潟県知事)との対談(進行:新潟日報社代表取締役 五十嵐幸雄氏)におきまして、「東洋のバルビゾン構想」を実現させる「妙高バルビゾン構想」について語られました。ミレー、ルソー、ディアズら世界的画家を輩出したパリの郊外「バルビゾン」にならい、赤倉温泉に世界芸術文化交流を展開させることが、天心の志を受け継ぐものと確信されている様子がうかがえました。

 赤倉温泉にはそれだけの魅力があります。

赤倉ホテルからのお知らせ温泉ソムリエとは有縁講 - 親鸞聖人ゆかりの宿にて妙高高原で健康になろう